弓月愛の光りの輝き

“常識“より大切なこと。それは、“真実“…

命の灯火のピリオドは、いつどのようにして打つか?

命の重みを知る者だけが、真に命を生き切ることが出来る。

多次元世界から見た、命の輝きというものは、死をもって終わりとなるものではない。

この肉体は、永遠の魂の宿る、仮の入れ物であり、死は人生の終着点ではない。


このことがわかってくると、命の灯が消えようとしている人たちの、本人や家族の悲しみというものが、また、別の意味をなしてくる。


命は、永遠である。


さも、私たちにとっては、まるで永遠にそこに輝き続けているような、太陽のように、いったい何を燃料として、燃え続けているのかと思うほどに、長い長い時間を、休むことなくありつづける、太陽のように、私たちの魂も永遠である(実際は、太陽の寿命よりも、永久に生き続ける)


この人生の意義というものが、ただ闇雲に、ここ(地球)に執着していることが、私は変だと思うようになった。周囲のものたちの願いというものは、無知なるゆえに、彼に施された祈りなのではなく、実は自分自身にとって、その者の存在がまだいなくなられたら困るから、という、実に身勝手な、執着なのではないか、そのように思い当たった。

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では、人生の灯火は、いつまで輝き続けたらいいか?

そう思った時に、無抵抗に、おびえながら、受動的に死を待つのではなく、積極的な自らの意志による死があってもいいのではないか…そう思えた。


この文を読んで、安易に、勘違いして欲しくないのだが、私は決して、みなさんに自死をすすめているのではない。むしろ、自死は、霊界の法則を知る者として、なんとしても、止めなければいけない立場にあることを、自覚しているからだ。

 

自死というものは、たぶんに、この世に絶望をおぼえることにより、なす行為であり、私が考えているものは、この世での修業を終えた御魂が、自らピリオドを打つという最後の修業があってもよいのではないかということである。


歴史上の高僧および、修行者の中には、自らの死の日にちを予告するものたちがいる。


それは、決して、自らに施す残虐な死などではなく、通常の人間でもなかなか、お目にかかれないような、自然に身を委ねながら、灯火が消えるかのごとく、自然と命がつきる死の形である。

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良き世界へと旅立つには、その瞬間の境地というものも、とても大切なことである。

自死とは真逆の、絶望ならぬ、天命全う成就における満足な状態の極地において、高等な修業を果たしたものが(やり方はわからないが)自らピリオドを打てたとしたら、それは最高のことではないか?


かつての、栄光あるスターたちや、名声を誇った者たちが、隠居後、心なきものたちに利用され、ボロボロになって惨めに死んでいく姿を見る時、果たして、彼らにとって、その後の、孤独と、価値観のまったく異なる者たちによる不理解と、屈辱の日々は、果たして必要だろうか?と思うのだ。


繰り返すが、絶望による自死は、決して成してはならない。

それによって、苦悩の終わりは、得られないからだ。

私が言っているのは、死後の世界の修業の継続である。

 

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年を経ると、物質的な欲望や、執着が徐々に減って来る。

打算をやめた分、本質が見えるようになってくる。


若い人には、そんな人生はつまらないだろうが、迷いがなくなる分、安全性や確実性、心の安寧は間違いなく得られるようになる。

無闇に、人の目を気にしなくなるし、相手が怒っていても、さほど、怖くなくなってくる。

相手の、立場や肩書が、“なんぼのもんじゃい”と、思えてくる。

じっーっと冷静に相手の言動を見つめていると、その者の、意外な心の弱さが見えてくる。


ただ、現代社会のような、孤独で動けなくなっても、まだ、医療なり、法律などに縛られ続けて、“生きなければならない”といったような、システムの中で、厄介者にされながら、どうして、なおも、この世にしがみついていることが、高徳であり、目的なのか、私にはわからん。

長けりゃいいってもんじゃない。

高齢者にも、充実した者と、そうでない者がいる。

 

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まぁ…、ひとりごとだと思って聞いていただけたら、幸いである。

 

幸いの形は、人それぞれだ。

 

ぜひ、みなさんそれぞれの幸せの形を、生きながらに顕現していただきたいと、切に願う。

 

弓月愛(ゆづきあい)すぴりちゅあるひーらー